Kevin's B-6

東大に0.1点差で落ちて悩んだ挙句後期から仮面浪人していた。何年か後にコイツこんな事思ってたのかwwwという楽しみのために書いている。

線とアケルと荘子思想(共通テストで失敗したあなたへ)

はじめに

新年明けましておめでとうございます。夜中どころか昼間にもLINEが来ない男ケビンです。皆様いかがお過ごしでしょうか。共通テスト受けた方は一先ずお疲れ様でした。僕は年末唯一の予定であった忘年会で、高校の友達からいつの間にか作ったと言うJK彼女との生々しいエピソードを聞いてなんというか微妙にげんなりしております。クリスマス?新年明けた?だからなに?、どの時間もこの一度きりしか無いんだから全て同じ価値なんだが?と息巻いていた方もいるのでは。

前回時からかなり時間が経ってしまい、申し訳ありません。東大の大学生活についても書きますとどこかで言った気がしたんですが、大分薄味の生活を送っているのであまり書くことが思いつきませんでした。

今回は線とアケルと荘子思想という事で、バカとテストと召喚獣みたいですが、大学でやった内容をふわふわっと何となく恣意的に取り込みながら、受験生へのメッセージ的な何かを書いてみようと思います。ここ、テストに出ません。

 

荘子思想

ソース画像を表示

荘子(荘周)は戦国時代の宋という国に生まれた思想家です。諸子百家とかの時代の人ですね。この時代はその名の通り、戦の激しい時代(キングダムの時代)で、宋の国も斉という国に最終的に敗れてしまいます。韓魏趙燕斉楚秦の斉ですね。荘子の思想といっても色々あって、胡蝶の夢とか井の中の蛙大海を知らずとかが有名な逸話ですが、今回は一番メインとなる二つの思想を紹介したいと思います。それが万物斉同と逍遥游です。

 

万物斉同

万物斉同とは文字通り万物は(道という根本原理から見れば)一つの同じものだという思想ですね。斉も昔は同と同じ意味で使われていたようです。二字で構成された言葉のそれぞれが同じもしくは逆の意味を持つ事が多いというのは受験漢文で結構役に立ちます。報道という言葉から道に報と同じ意味がある事や、告白という言葉から告=白で白にもうすという読みが有る事が分かる、といった感じです。万物斉同の話に戻りますが、荘子はなぜそんなふざけた思想に辿り着いたのかを考えてみると、やはり彼の時代が戦乱の世だったという事に関連していると思われます。なんでそんなに争う必要があるのか?という問いが彼の根本にはあったようです。彼のこの思想の理屈は「人間の能力(知性)の限界」という所からスタートします。これは人間の世界に対する認識能力には限界があるという事です。現代社会にいる僕たちであっても世界の全てを認識しているとはとてもじゃないですが言うことは出来ません。紫外線や赤外線が一々見えてたら誰が屁をすかしたのかすぐ分かってしまいますし、スケスケだったらスカートの中身に風情を感じる事もないはずです(見えないから価値がある)。視界に入った世界の情報を全て受け取ってしまうと脳の処理能力が追い付けないため、必要だと思われる情報以外は少なくとも意識に上がる前に切り落とされているわけです。このように世界を把握する力に限界を持つ人間は「分節」という行為で対応します。世界をまるっと飲み込めないので切り分けて対処しようという事です。これは人間であれば誰しもが行っている筈の行為で、例えば世界と自分の境界が曖昧だった赤ちゃんが自分と他者を切り分けて考えるようになったり、言葉を使って世界を分節する事でよりクリアに認識できるようになったりという話です。(灰色という言葉を知らない状態で灰色のものを見た人は白か黒としか思えないわけですが、灰色という言葉で細分化する事でよりクリアに世界を認識できるようになったと言えます。)

問題はここからで、荘子はここに争いの原因を見出します。それは「人間では上手く世界を線引きできない」ということです。これを荘子は絶対性という事に着目して述べます。美醜とか善悪とか是非とかそういう事の基準って時代や地域によってかなり違っているよね、それ全然普遍的なものじゃないじゃん、と言うわけです。平安時代の美人と今の美人像は大分異なりますし、現在の人同士であって熟女好きからロリコン、同性愛者など様々な人がおり、美醜の基準というものが人によって全く異なるという事は理解できると思います。善悪や正義を決める線引き(こっからは善、こっからは悪的な)というものが時代、立場によって大きく変わる、絶対性を欠いた存在であり、この線引きが上手く出来ない理由として荘子は人間の知的能力の至らなさを挙げているのです。つまり、本来一つのものである万物(だから分節するのはナンセンス)を、それをマルっと認識できないがために、不完全な分節能力に頼って世界を認識せざるを得ず、しかもその線引きを絶対的なものと思い込んでしまう為争いが生まれると考えたわけです。(線引きがどうみても時代や地域ごとに異なっていて不完全=絶対的な境界線を引くことが出来ていない→人間が無理やり、勝手に、認識能力のメモリ不足で絶対的でない、つまり本質的でない線引きをしている→その余計な線引きを取り払えば万物は一つであるはずである=万物斉同)

何故絶対的でない線引きにそんなにこだわって人生無駄にしてるの?というのが万物斉同から導かれる荘子の考えだと思います。美醜も、善悪も、是非も、東西も、生死もなく全ては一続きというわけです。例えば生死については、たまたま人という形で今存在しているだけで、死んだら世界に帰っていくだけであるという考え方になります。ただ単に人とかトリとか虫とかという形を一時的に取っていたに過ぎないと考えるわけです。荘子は彼の妻が亡くなった時も枕もとで踊っていたという逸話が残っていますが多分この生死の一体性を理解していたからなのでしょう。

僕は昨日食べたカレーもカラスもコオロギも渋谷ギャルも全て一つという考えが、中々しっくりこなかったのですが、色々悩んだ結果、砂とか太陽とかで例えれば分かりやすいのではないかと思うようになりました。砂で城を作ろうが、LOVEと書こうが、ひょうたんを作ろうが、すべて根本からみれば砂なわけです。荘子に言わせれば現在の僕たちが別々のものとして認識しているのは太陽の表面から燃え上がった太陽フレアが一時的に色々な形になっているのを見ているだけで、それらはまた太陽に戻っていくため元を辿れば全て太陽だという事になります。

 

逍遥游

万物斉同が長くなってしまったのでこちらは短くしますが、これは簡潔に言えば散歩する感じで何にも囚われずに自然に生きようという思想です。本来一つのものを別々に考えている時点で荘子からすればナンセンスなわけで、そこに拘る事は無価値だと彼は考えているようです。本来「一つ」であるものは僕たちが認識する別々のものを生み出すものが全て入っている、いわば大元なので「渾沌」でもあります。神話系は大体渾沌(カオス)から世界がスタートしますよね。この渾沌は人間が何も認識できないという意味で「無」とも言われ、これはこれで仏教の空とか物理の真空とかと関連していて面白いのですが割愛します。何はともあれ、世界をまるっと一つのものとして認識できず、下手に不完全な線引きをして争いを生むくらいなら、渾沌を渾沌として飲み込み、こだわりというナンセンスな行為をやめてただ変化に身を任せて散歩する感じで気楽に生きようというのが逍遥游思想でした。荘子は非常に受容的な哲学なのです。個人的な感想ですがこの「散歩」という表現がとても上手いなと思いました。散歩している時って、机に向かっている時とかと違って、何か特定の事を整理しながら考えてはいないような気がします。完全に何も考えていないというわけでもなく、日光が気持ちいいとか、期末試験嫌だなぁとか、さっきすれ違った人妻、前のサラリーマンには挨拶していたのに俺にはしてくれなかった!とかいろんなことが浮かんでは消え、浮かんでは消えしているわけです。これはまさに一種の渾沌状態だと言えます。要するにボーっとしている状態ですね。風呂に入っている時とかもこれじゃないでしょうか。渾沌からものが生まれるという考え方も結構馴染みやすく感じました。煮詰まって散歩に行くと不意にいいアイディアが浮かぶことがあるというのは科学者とかもあるらしいですし、アルキメデスが浮力の原理を見つけたのも風呂に入っている時だったそうですよね。荘子の逸話の中に渾沌という名の、顔がのっぺらぼうの王様の話がでてくるのですが、その話では最終的に彼が親しくしていた人間の王が好意で彼の顔に目と口を刻んでしまったせいで渾沌さんは死んでしまうという結末を迎える事になります。なんというか人間が勝手に線を引いている事に対する荘子の皮肉が利きまくっている話ですよね。

 

結局何が言いたかったの?

荘子思想の根幹は、万物は実質一つであり、その上に人間が勝手に境界線を引いたせいで生まれた個別という認識は全く普遍的な本質・真理ではないので、そんなものに執着するのはナンセンスだから辞めて、変化に身を任せて自然体で生きようねというものでした。なるほどねぇ、という感じ。彼にとっては時間も一体的なものであるので、過去、現在、未来といった区分はナンセンスであり、クリスマスも平日の水曜日も何ら変わらないわけです。しかし、ここまでぶっ飛んでいると、逆張りのプロといった印象も受けます。また、荘子の考えをはい、そうですか、と完全に受け入れてしまうとこの年で仙人という名のニートになってしまいます。というわけで東洋のギャクハリウスこと荘子の思想に無謀にも自分なりの一捻りを加えてみたいと思います。

 

My opinion

荘子にとって人為は不完全で余計なものでした。人為による勝手な線引きに拘るせいで無駄に争いが起きるからです。しかし、ここに反駁してみたいと思います。人為による線引きはナンセンス、というのは真理なのかもしれませんが、だからといって辞めろ、では面白くないのでもっと自分に都合よく使いません?と提案してみます。つまり、勝手に線引き出来るのが人為の特徴なのであれば、それを最大限に生かそうということです。クリスマスや新年と平日の水曜は何も変わらないだろ!と冒頭で息巻いていた方、正解です。何も変わりません。等価です。しかし、どの日付を特別という線で囲い込むかというのは個人の自由です(それが個性?)。クリスマスだから祝うのではなく、なんとなく自分が祝いたいと思うなら12月25日を祝えばいい。カップルが憎いなら祝う必要などないし、平日を自分だけのクリスマスにしてしまえばいい。平日のど真ん中でも自分がそうしたいと思えば祝日になり得る。「新年」を気持ちを新たにする機会として捉えるならば、新年は勝手に明けるものではなく、自分で開けるものなのである(「アケル」のタイトル回収)。終始の区別が無いのなら、どこを始めと決めようがどうせナンセンスなら、今がどんな状況であろうと今をスタート地点と設定して、気持ちを新たに取り組み直す事が出来るはずです。今からでもまだ自分の気持ち次第で再奮起出来る、というわけなので受験生の方、特に共通テストで思ったようにいかず現在とても苦しい方、諦めずもうひと踏ん張りだけ気張って下さい。僕は一浪の時センター試験で自分の目標としていた点よりかなり低い点を取ってしまい、柄に無く結構落ち込んだ経験があるので、あえて共通テストの後にこのメッセージを出す事にしました。一浪時の僕がこれを読んで納得したり気持ちが晴れたりするかは分かりませんが、僕にできる事はこの程度です。結構マジでその時は辛かったので結局精神論かよ、と思う気持ちも分かりますが、ここからは如何に効率的に時間を使えるかが大事です。納得せずとも机に座って過去問と向き合うと無駄なことを考えずに済むと思います。一旦ガツッと落ち込んだら後は勉強に集中しましょう。どうしてもやる気出ない時はスポーツ選手の頑張ってる試合とか見ると良い刺激を受けられると思います。荘子からみれば合格も不合格も変わらないわけですが、僕的には合格して嬉しいなら十分価値のある事だと思います。落ち込んでる暇、無いです。諦める理由、無いです。後一か月、試験終了後にやり切ったと思える事、そしてその後道が開ける事をを祈っております。

 

答えは全然得てないし、大丈夫でもないけど(なんかあまり準備する時間を取れなくて失敗してしまった期末試験、めっちゃ時間かけて書いたのに解答の指定からずれているとか言われてD付けられたレポート、対面試験を受けてみたら思ったよりみんな知り合い的な感じになっていて悲しくなった現実などなどから目を背ける事を辞めて)俺も頑張っていくから、、、

 

f:id:kevin0029:20210122051824p:image

法Ⅱ受けてる時の僕